資料

旅座で作ったパンフレットの文字データ。
また使いたいときにどこに置いたか、捨てたか、見つからないこと多々あるので、歌以外のデータをここに置いとこ。貼付け。

● 北原白秋
1885年(明治18年)柳川藩御用達の海産物問屋を営む旧家(現・白秋生家)に生まれ、1904年(明治37年)に早稲田大学に入学。学業の傍ら詩作に励み、1909年(明治42年)処女詩集「邪宗門」を発表。2年後、詩集「思ひ出」を発表。名実ともに詩壇の第一人者となります。 その後も詩歌集、童謡集などさまざまな分野で次々と作品を発表。 聴いたら誰もが知っている、今なお、語り継がれる作品を数多く残しています。 1942年(昭和17年)11月2日死去。享年57歳。

●北原白秋記念館
福岡県柳川市沖端町55-1 大きな造り酒屋であった北原白秋の生家は、土蔵造りの古風な建物。明治中頃の白壁を残し、内部には白秋の遺品や原稿、写真などが陳列されています。
北原白秋記念館

● 六騎(ろっきゅ)の由来
六騎とはこの街(沖ノ端)に住む漁夫の渾名であつて、昔平家没落の砌に打ち洩らされの六騎がここへ落ちて来て初めて漁りに従事したといふ、而してその子孫が世々その業を継襲し、繁殖して今日の部落を為すに至つたのである。
(北原白秋「思ひ出」より)

● 柳川地方の方言
トンカジョン・・・大きい坊っちゃん
チンカジョン・・・小さい坊っちゃん
ゴンシャン・・・おじょうさん

● 八千代座(国指定重要文化財)
明治43年(1910)に建設された芝居小屋・八千代座。 国の重要文化財指定を受けて実施された「平成の大修理」を経て、平成13年から現代の芝居小屋として活き続けている。 熊本県山鹿市大字山鹿1499番地
八千代座公演情報サイト

●● 南関(なんかん)
熊本県の北西部に位置する山に囲まれた町。町名は古代よりこの地に置かれた関所に由来する(平家物語の中に南関町の関所が書かれた一節がある)。北原白秋の母の実家があり、白秋も南関町で生まれた。
南関町ホームページ

● 太宰府天満宮(福岡県太宰府市)
天神さま(菅原道真公)をお祀りする全国約12,000社の総本宮と称えられ、「学問・至誠しせい・厄除けの神様」として、ご崇敬を集めています。
太宰府天満宮

● 志賀島(しかのしま)(福岡県福岡市東区)
博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。 古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。漢委奴国王の金印が発見された島。

● 志賀海神社(しかうみじんじゃ)
志賀海神社は綿津海(わたつみ)三神を祀り、古来より海の守護神として信仰されてきました。海上交通の要所である玄界灘を臨む博多湾の入り口に鎮座し、海人部(あまべ)の伴造(とものみやつこ)として著名な阿曇(あずみ)族に奉祀されました。1月の「歩射祭」、4月15日と11月15日の春秋に神功皇后伝説にちなんで狩漁を演じる「山ほめ祭」、10月初旬の夜間に遷幸・遷御と芸能が奉納される「神幸行事」はいずれも福岡県の無形民俗文化財に指定。
【公式】志賀海神社ホームページ

 

● 関連ワード
*水城(みずき)の堤防
唐と新羅の攻撃に備えて全長1.2kmに渡り築かれた防衛施設跡。 大宰府のある北部九州は日本中で一番中国や朝鮮に近く、大和朝廷は早くからこの地方を治め、外国との交際をした。 しかし663年、白村江の戦いで唐や新羅の連合軍に負けたことをきっかけに、敵の侵攻に備えるため、水城や大野城、基肄城を築いた。大宰府を守るのに最も重要な所であった。

*防人(さきもり)
646年(大化2年)の大化の改新において、即位した孝徳天皇が施政方針となる改新の詔で示した制度のひとつである。663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された。

*元寇(げんこう)
蒙古襲来。日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)。主に九州北部が戦場となった。

*三池炭鉱(みいけたんこう)
江戸時代から採掘が行われてきたが、1889年三井財閥に払下げられた。日本の近代化を支えてきた存在であったが、1997年3月30日に閉山。

団琢磨(だんたくま)・・・近代化に努めた三井財閥の指導者。昭和初期における財界の最高指導者として活躍。作曲家の團伊玖磨(だんいくま)の祖父。
團伊玖磨の作品・・・やぎさんゆうびん、ぞうさん、おつかいありさん、花の街など 

 

● 万葉集
水城 「遊行婦女児嶋(うかれめこじま)」(袖振りの別れ)
大伴旅人(おおとものたびと)は8年にわたり「大宰府」の長官として赴任していた。そして天平2年(730年)12月、上京するため大宰府を後にする。この時の「旅人」は66歳で太宰府へもう戻ることはないと誰もが思っていた。 太宰府を去る「旅人」を見送る「遊行婦女児嶋(うかれめこじま)」との歌。

●凡(おお)ならば かもかもせむを かしこみと 振りたき袖を 忍びてあるかも(巻6-965)
あなたが普通の人であったならば、分かれを惜しんで、あれもしてあげ、これもして上げたいと思いますが、尊いお方ですから畏れ多くて,振りたい袖も耐え忍んで居ます。

● 大和路は くも隠りたり しかれども 我が振る袖を 無礼(なめし)と 思うな(巻6-966)
大和への道は、くもの彼方にあります、あなたがその向こうに往ってしまわれると思うと、畏れ多いとは知りつつも、つい袖を振ってしまいますが、無礼だと思わないでください。

●ますらをと 思える我や 水茎の 水城の上に 涙拭(のご)はむ(巻6ー968)
自分は立派な男だと思っていたのに、あれやこれや、別れの思いに耐えかねて、水城の上で、流れる涙を拭うでしょう。

●大和路の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも(巻6-967)
大和へ行く道筋にある、吉備の国の児島と言う名の場所を通るとき、筑紫の娘子「児島」をきっと思い出すだろう。