まずトップ

サンパウロ在住のブラジル人画家・若林さんが木馬で一人で飲んでおられた。お噂は聞いていたが私は初対面。1961年若林さん30才、奥さん20才の時にブラジルへ渡ろうと決意。「農民」としての計画移民ならすんなり許可が取れたのに、「画家」として申請を出したから4度も断られたらしい。奥さんはいい家柄だったようで、移住センターで移民船の順番待ちで滞在していると外務省からの差し金(?)で移民を止めるように忠告されたりしたにもかかわらず、若林さんについて行く。移民船50日間。
いざ移民した人を前にすると、どこまで話を聞いていいのやら・・・。もしかしてナイーブな問題かもと思いつつ、聞いてみる。すると、戦中戦後六甲で過ごし(野坂昭如と同窓生)、どうにかいい生活をしなければというエゴがかたまりまくっていた日本がとても嫌だった。家があったら帰りたくなるかもしれないから売り払ってブラジルへ移民した、と。童謡サロンブラジル計画を話すと、順序立て過ぎと忠告を受ける。行ってしまったらみんなどうにかしてくれる、と。うん、これは私の基本だった。どうして最近こんなに順序立ててるんだろうと、一瞬頭をかすめたことがあったけど、どこかからかお金出してもらおう意識が強いので「頑張って」順序立てている。順序立てると「なんとか協会」とか「なんとか省」とかに話がいっても、まず秘書課に渡り、部下に渡りと下から上への構図なのでよくない、行ってしまって体当たりでトップへまず話を持っていきなさい、と。ははぁ〜、そうでした。そうですね。感覚を戻されたかんじ。
「じゃ、サンパウロで会いましょう」と、さらば。