引越祝い

原田伸郎さんのライブへ。伸郎さんとは佐渡裕さんの一万人の第九の楽屋前でお会いして以来久しぶり。あっ、一回新大阪駅でばったりお会いしたかな?
『赤とんぼ』の歌ではじまり(ちなみに山田耕筰ではありません。赤とんぼの羽をとったらアブラムシの方)、“ぽ“が3つだけの散歩の歌、一言だけの歌、のぶりんニュース、フランス語講座など次から次からおもしろい。さすが・・・
同級生の笑福亭鶴瓶さんに修学旅行生専門の旅館でのバイトを紹介されて行ったとき、玄関を掃き掃除をしていたのが清水國明さん。布団を何百枚と敷くバイトですごく時間がかかるのに、清水さんは10分で終える。なんでだろうと彼の担当の部屋を覗くと、「はーい、今から京都式布団の敷き方を教えまーす。京都みやげに覚えて帰ってくださーい」と司会して自分が敷かず、みんなに敷かせていたらしい。バイト代値上げのストライキをしたら首になって清水さんがビアガーデンで歌うバイトを見つけてきて「魚屋のおっさんの歌」とか歌ってテレビに出るようになっていたのだとか。
きょうおもしろいこと聞いたなぁ、そうだ、なんと小室哲哉はあのねのねのバックバンドをしていたらしい!「僕も最低の時があってね、あのねのねのバックなんかしていた」とテレビで言ってたのだとか。ちなみに河島英五も自分のユニットでバックバンドしてくれていたのだとか。当時ホールを貸したがらないのは矢沢永吉のキャロルとあのねのねだったらしく、永ちゃんは格好よさに失神者続出で貸したがらず、あのねのねは卵や小麦粉、たまねぎなどがステージに投げ込るのが定例で嫌がられていたらしい。
わたしは読売テレビの『日曜はピアノ気分』で伸郎さんと何年か仕事をご一緒させてもらっていた。震災1週間後大阪に出てはじめてお風呂に入り、はじめてした仕事がこのピアノ気分。当日譜面をもらいリハーサルに入るといつもは分かる音が一切わからなくて楽譜が読めない。なんと音が完全に身体から消えていた。
「僕にできることあったら遠慮なく言って」と言ってくれたのも有り難かったが、被災した長田のマンションを出て北野町に引越したときに『引越祝い』として封筒を頂いた。「お見舞い」という言葉が当たり前にあふれていた時期、「祝い」という文字がとても鮮明に映ったのを思い出す。伸郎さん流気配り。