袖ふれあうも他生の縁

上海太郎ソロマイム公演『指名手配』初日。佐渡さん&きみちゃん、安積さん&のぶちゃん、津田さん、さん、美香ちゃん、俊介さん、愛ちゃん・・・といろんな顔ぶれ。
公演告知文に「上海太郎と同時代にこの世に生まれたメリットを何も生かさず君は死んでいくのか?!」と書いてある。
うーん、そう言われると、そうよねぇ、そうなんだなぁ。同時代に生まれてる人たちって考えるとすごい偶然なんだなぁ。しかもそこで出会えてこうやって一緒に食事したり遊んだりしてる人たちってごくごくわずかな数なんだろうなぁ〜・・・。なんだっけ、「袖振れあうも他生の縁」とか言うことばがあったっけ。
と、この言葉を思い出して、これについて上海氏が何か書いてたなと思ってホームページをのぞいたらやっぱり書いていた。おもしろいエッセイなので勝手に引用。


『輪廻転成』上海太郎
「袖ふれあうも他生の縁」という言葉がある。時々勘違いして「袖振りあうも多少の緑」だと思っている人がいる。こんな人は草の生い茂っている場所で着物を着てはしゃぎまわってほんのちょっと袖が緑色になってしまうのである。そんな奴はほっといて、本来の意味はと言うと、通りすがりにちょっと袖が触れあっただけの相手ですら前世、あるいはもっとずっーと昔の別の人生(=他生)の舞台上で何か関係を持っていたかもね、ってことである。驚くべきことに、この言葉は人が生まれ変わることを前提にしているのである。実は今も昔も、人々は自分が生まれ変わっていろんな人生を生きて来ているのではないか、と疑っている。いや確信している人も数多くいる。その証拠に私が目の前の女性に「前世でお前と恋人どうしだった様な気がする…」とつぶやけば十中八九その女は私に惚れるのである。「昨晩お前と結婚する夢を見た…」に次ぐ確率の高さである。それ程、女は前世の存在を信じているのである。女と限定するのは、男に向かってそんな実験をしたことがないのでわからないのである。かのクリシュナ・ムルティは何十回と輪廻していると噂されたし、チベットではダライ・ラマが死ぬとその日に生まれた赤ん坊から次の世継ぎを選定すると聞く。私が死んだらその日に生まれた赤ん坊を探し出し、上海太郎2世と名付けてくれてもよい。生まれ変わると言っても人間から人間へ、とばかりは限らない。前世の前世の前世の25乗あたりは猿だったかも知れぬ。いや、来世が猿だったらちとつらいものがる。今から猿に親切したくなる。ホモ・サピエンスが地球上に出現してまだほんの数万年であるのだ。それ以前から我々の系譜が続いてきたとすれば、今袖のふれあった人は猿時代の恋人だったり、とかげ時代の娘だったり、アメーバ時代に分裂した相手だったりするわけである。そして、ある男が死の真際に垣間見た過去の記憶が前世からその前世へ、猿時代から馬、鳥、とかげ、カエル、魚、アメーバ時代へと遡り宇宙のビッグ・バンに至るというのが、私の代表作『ダーウィンのみた悪夢』のあらましである。おーっと、自分の芝居の宣伝のようになってしまったか?


『指名手配』あと2日間、大阪市立芸術創造館であります。