雲仙普賢岳

kazumi-amitie2009-03-07

両親と車で熊本の天草へ行こうと高速に乗ったら思ってたより遠いことがわかって急遽フェリーに乗って島原半島へ(こんなんばっかり)。何の前情報もなかったのでお昼をいただいた店の大将に島原半島の説明を受け、まず雲仙地獄へ。あっちの谷からもこっちの谷からももくもくとすごい湯けむり!
雲仙を最初に開いたのは1300年前、奈良の僧「行基」だそうだ。当時「温泉(うんぜん)」は女人禁制の霊山として西の高野山と言われるほど栄えていたそうである。湯けむりの中を歩くとキリシタン禁制で踏み絵をさせ見つけたキリシタンたちの墓があった。この雲仙で熱湯をかけ処刑されたそうだ。ああ、長崎、ああ、島原。
山はさらに上へは上れず、立ち入り禁止。もちろん、ここは大噴火のあった雲仙普賢岳。噴火によってできた平成新山もある。島原の方へ降りると雲仙岳災害記念館『がまだすドーム』があって行ってみた。がまだすとは「がんばろう」という意味だそうだ。
神戸の震災はもちろん日も時刻も規模も覚えているが、他の土地の災害は正直あまり覚えていない。1990年11月から1996年6月まで計9432回噴火があったそうだ。映像を見たら思い出した。火砕流も土石流も恐ろしすぎる・・・。これだけ火砕流に飲み込まれたら思い出もなんもあったもんじゃない。
記念館のカフェで働く女性といっぱいお話した。1990年11月に2本煙が上がった時点では「山火事です」と町内放送が流れたらしい。その後消防士さんたちが山を上り噴火だとわかり、避難命令が出た。彼女は家を増築中だったので屋根だけ急いで作ってもらって1年間避難したらしい(1年はかなり短い方)。6月3日に大噴火があり、火山研究家、消防士、警察官、報道20人、報道陣を待機しなければいけなかったタクシーの運転手さんなど亡くなられた。娘さんが通っていた大野木場小学校は山のふもとにあって低学年はお家に帰っていて、高学年は学校に残っていたが校舎の反対のグラウンドに避難しどうにか無事。学校側の対策も早く、普通は7月下旬から夏休みなのに6月22日から夏休みにして学校を建て直し8月中旬から2学期にした。でも9月の噴火で爆弾が落ちたみたいに焼失したらしい(現在は移転)。火砕流は時速100キロ!どうしようもない早さだけど、何回も娘さんを車に乗せては逃げたとか。
「大変な山だけど、うらみなんかないんです」と彼女。